関ヶ原行った目的の最大メイン、西軍陣跡巡り〜♪

やって来ました
笹尾山。西軍ファンの聖地、
石田三成の陣跡。駐車場のすぐ横から竹矢来がお出迎え。

裏からみると二重に竹矢来が設置されてます。これを一晩で組み上げるのは無理だと思うので、私はやっぱり以前からココで決戦をする準備を前々から計画していた説を推します。家康に関ヶ原に誘き出された説なんて知らん!(苦笑)
最終決戦地からは目と鼻の先。色んな感傷が渦巻きます。

竹矢来の東端に立てられた
嶋左近陣跡の説明札。
旗印もここだけちゃんと左近の物w 実際の陣跡はもう少し東側の小学校の辺りだったそうです。
とすると、この辺は蒲生や舞が守ってたのね。
笹尾山山頂へは2本道があって、どっちを登っても徒歩5分で到着。

石田三成陣跡と説明札。
やっとここまで来たよ。遠かった…(つ∀`)
けっこう整備されてて、お弁当食べてる人とかもいました。平和だ…。

笹尾山から見下ろした関ヶ原。奥に3段に見える山の一番手前の山が、小早川の居た松尾山。
あそこから兵が東軍方向に動くのを、三成はどんな思いで待ち望んでたんだろう。
考えてみると狼煙でしか通信手段がないってのもホント不便だよね〜。
後ろ髪を引かれる思いで山を降りて次の場所に移動。
島津義弘陣跡。
笹尾山からは直線で2、300mあるかないかです。
島津の関ヶ原での行動を読む度に、男の意地ってときどき始末に終えないよな…とか思うの私だけですか?あのとき豊久じゃなくて義久に会えていたら、また違った歴史があったのかなとも思います。なんにせよ、島津のだんまりは小早川の裏切りとなんも変わらないと思うのですよ。そこに拘ってるからいまだに島津が苦手なんだろうな〜無双2も進まないorz
小西行長陣跡。
島津陣跡からは目と鼻の先です。すぐ見えてます(苦笑)
島津さえ動いてたら小西隊は敗走しなかったんじゃーと叫んでみても後の祭り。うん、いいんだ。単に私が小西贔屓なだけなんだorz
本によって躁鬱の両極端に書かれているし、宇喜多や三成の為に身を挺して奮戦したのもあれば、大垣城で三成と軍議が合わずに戦いそのものに絶望したまま、死に場所を求めて戦っていたという説もあって、本当につかみ所のない武将なんですがね。資料の少なさが本によって性格が違ってしまう原因かと。面白い男だと思いますよ。色んな意味で。
そうそう、この辺一帯車1台通れるだけの細い道路なので、車で周る人は要注意。私も笹尾山から島津に行く途中でお見合いしましたよ。相手がバックしてくれて助かりました(^^;)
宇喜多秀家陣跡。
満天山神社の境内にあります。島津の時にも思ったんだけど、2個石碑があるのは何故?小さい方「浮田」になってるし…まぁわざと当て字にする場合があるので、あながち間違いではないですが。
宇喜多といえば、実は三成が挙兵するよりも早く、先に宇喜多が挙兵したから三成は計画を前倒しして徳川に挑んだって説がありますね。もしそうだったのなら、総大将を毛利じゃなくて宇喜多にしてたら、また違った歴史が動いたのかな〜と妄想してみる。まぁ実際問題、格の差で毛利を立てなきゃいけなかったんだろうけど。秀家の若さがな〜と同時に小早川の若さもな〜二人ともせめて三成とは云わない。幸村ぐらいの年齢だったら更にもうちょっと違った結果になったんじゃなかろうかと。なんか色んな意味で惜しいなぁ。
平塚為広の碑。
宇喜多からは真っ直ぐ来れば10分ぐらいなんですが、徒歩じゃないと行けません。ダムが渡れない…orz
車&自転車は一回松尾の交差点まで戻って、R21経由で向かってください。
行った時は勉強不足で彼の事をよく知らなかったんですが、帰ってきてから大好きになった武将ですw
彼も一応大名の一人なんですよね?陪臣じゃないよね?なのに吉継の代わりに隊を動かしたり、三成への使者に立ったりと、彼こそ友人の鏡じゃないのかと思うのですが。死ぬ間際に吉継に送った辞世の句もまた泣ける。
彼にとっては吉継も三成も、秀吉から託された大切な弟達のようなものだったのかな〜となんとなく妄想してみたり。資料少ないのは西軍故ねorz
大谷吉継陣跡。
表記は吉隆になってますけど、関ヶ原直前に吉継から吉隆に改名したそうな。
平塚さんのトコから徒歩15分ぐらいかな?ほぼ登山道なので自転車も不可。車は駐車場もないので路駐するしかないです。
でもね、ここに着いて気づいたんだけど、なんか真下に見える神社から道が繋がってるように見えるのは気のせいですか?かなり急な勾配だけど、多分ここから来るのが一番近いと思います。
ここは合戦終了後の夜に、家康が休んだ場所でもあるそうな。
まぁ大谷隊は山を降りた場所で小早川や脇坂の寝返り隊と奮戦して壊滅したので、山の上のこの辺は死体が少なかったからって事でしょうか…('A`) もちろん一番西側だって事もあるでしょうが。次の日はここから佐和山城へ攻め込んでますからね〜…orz
この辺一帯、よく見ると地形を生かした土塁の後が残ってるそうです。私には区別つきませんが。その辺から考察するに、大谷隊は早くから関ヶ原で戦準備をしていたと思われるそうです。発見してくれた研究家の方々ありがとう!早くその説が定説になりますように…。

大谷吉継の墓の碑。

左:湯浅五助の墓 右:大谷吉継の墓
こんな山奥にしては…立派ですな。
平塚から敵の生首に添えられた辞世の句を受け取った吉継は、その後奮戦するも味方の瓦解は止められず、已む無く近習の五助に介添えを頼んで自決。首を敵に渡さないで欲しいという遺言に従って、五助は山中にその首を埋める。しかしそれを藤堂高虎の配下に見つかり、自分の首を差し出す代わりに主君の首の場所だけは隠し通してくれと頼み討ち死に。五助の首を持って家康の首実検の場に現われたその武士は、五助の近くに吉継の首は無かったかと訊ねられたが、場所は知っているが武士の最後の願いゆえお答えする訳にはいきません、と堅く口を告ぐんだ。その武士の心意気に感じ入った家康は、それ以上追及することはなく武士も不問に処された。その後高虎によって五助の亡くなった場所に二人の墓が建てられた。という事らしいです。ちなみに吉継の首は未だに見つかってないそうな。
なんつーか、こんなに家臣や友人達に想われる吉継ってば、どんだけ好青年(?)だったんだろうと想像だけが膨らみます。西軍敗将であるながらも美談が多く残るのがその人柄を表しているというか…良い殿様だったんでしょうね。
てな訳で西軍巡り終了〜♪正味車で周って2時間ぐらいでした。
ん?脇坂?小早川の陣跡?裏切った武将は西軍ではありません事よ。
というより小早川の松尾山は登るのメンドクサ('A`)
まぁ次回って事で。
ところで、色々写真撮ってて思ったんですが、皆さんお墓の写真撮るときどうしてます?
私の場合、一応心の中で戦国地史跡巡りをしていて近くに来たのでご挨拶に伺いました。と、写真を撮らせて下さいお願いいたします。って感じのを云ってから撮影してきます。
たまに線香やらお花やらお酒やら置いてあるのを見ると、そういうのもお礼に置いてきた方が良いのかな〜?と思うんですけど、どうなんでしょ?ヘタに関係ない墓には線香も何もあげない方が良いって話も聞くし、でも写真撮らせて頂いてるし……自分はこうしてから撮ってますってのありましたらどうか教えてください。
史跡巡りは初心者だから、礼儀その他がまったく解らないのが難点ですわorz
撮影:07.11.24
参考サイト:
関ヶ原町観光協会